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今さらですが、解説 

今さらなんですが、ちょこっとだけ『桜の園』を解説します。
書くことで意味が一つになってしまうので、あんまり書きたくなかったんだけど、やっぱり、今回については書かなきゃなと思ったので。


僕の今の興味は、
・現代口語演劇の登場によって生まれた現代口語を話すための演劇的身体は他の言語を獲得することが可能か?
・日本人の身体はモノローグを可能にするか?
です。
だから、今回も青年団の俳優に妙ージカルをやってもらったり、
翻訳劇をやってもらったのも現段階でどこまで可能なのかを探るためです。
歌を上手に歌うことが大事ではなく、翻訳劇の台詞をどのように処理していくか?が大事なのです。
妙ージカルはやっぱりFUKAIPRODUCE羽衣のものであって、僕にとっては手段ではあっても目的ではないわけです。
(とか、いいつつ、僕は個人的に羽衣ファンでだし、糸井さんのファンなので、
一緒にやりたいという単純に強い気持ちもあったわけですが・・・)
まぁ、完成してないものを見せるな、という人もいるとは思いますが、僕は死ぬまで完成などしないと思ってます。
どうやれば、僕自身、おおげさに言えば現代演劇がどう前に進めるかが大事であって、マンネリを続けることには興味がないので。
マンネリ自体を否定しているわけではなく、僕は興味がない、ということです。

ふと、公演中に気がついたのは
観客はすでにあるものを見たがっていて、
作り手はまだ見ぬものを作りたいと思っている

このギャップは埋めがたいほどの大きいものがあって、そこは作り手が無視するか、丁寧に埋めてやる努力をするか、
埋まるのを待つか、などの選択をしなければいけない。
で、今回の『桜の園』での唯一の僕の反省点は(作品においてですが・・・)
もっと大きな溝を見せつけてやればよかった、ということです。
もっともっと好き勝手やらないと、溝があることに気がつかない人が多い。
まぁ、そうすることで苦情はもっと増えるとは思うんですが、みんなそうやってきたんだなぁ、と当たり前のことを今更ながら
気がついたわけです。

1幕、2幕というのは、俳優によって身体性をわざとバラバラにしてもらってます。同じ俳優でも台詞によって変えてもらってたりもするし。
ヅラというアイテムを使って周りの人達は、キャラクターからキャラクターに入れ替わるわけですが、その変わる瞬間も
素に見える身体でいてもらったり、キャラクターの間でいるときも素に見える身体でいてもらったり、
デフォルメした身体と日常的な身体とで会話をしてもらったり、情熱的に歌ってもらったあと、すぐにクールダウンしてもらって
冷静にぼそぼそ話してもらったり、わざとバラバラでいてもらったわけです。
そうした矛盾した身体を行き来してもらった後、3幕のスピードと曲に抑圧された状態の身体で全員が演じるようになる。
負荷によって身体性を統一させたわけです。
で、4幕で

「現代口語を話すための演劇的身体は他の言語を獲得することが可能か?」

をやってもらったわけです。なるべく日常的な身体のまま、翻訳劇の劇言語をなるべくリアリティーを持ったままやってもらいました。
ヅラかぶって、性別もめちゃくちゃなんだけど、翻訳劇の言葉にリアリティーを持たせる。
まぁ、無理なお願いを俳優にしたんだけど、さすが青年団の俳優で、落としどころのようなところを各自で見つけてくれた。
こういう瞬間がやっぱり演出をやっててドキドキします。
おお、できるのか、これ、と思った。(1幕、2幕でも、役どころによってはやってもらってるので、そこももちろんドキドキしている。)
演出の構成としては、わざとざらついた違和感のあるものを味わってもらった後、口どけのよいものを味わってもらって、
最後に、新食感を味わってもらう、というような感じにしました。
そうすることで新食感が際立つんではないかと思って。
僕としては舌を一本の芝居の中で教育してやろうと目論んだわけです。大きなお世話なんですが・・・

チェーホフへのアプローチに関しては、また時間のある時に書きます。
簡単にいえば、どう既存のチェーホフ劇の解釈から逃れるか、と、かっこつけないチェーホフ劇を作る、ということなんですけど。
絶対チェーホフはかっこつけてくれ、なんて思ってないよ、と僕は思ったので。
チェーホフが草葉の陰で、ニタニタ笑ってくれたらいいなぁー、と。
あと、大事にしたのは、ディスコミュニケーションです。
最初はなんでこんなコミュニケーションの仕方をするのか、さっぱりわからなかった。
誰も人の話聞いてないし、自分のことしか話さない。ロシア人ってそうなのかな、って思ってたんだけど、やっていくうちに、ああ、チェーホフはわざと
そうしてるのか、とわかった。これはチェーホフがわざわざ喜劇と書いているのはその辺からきてるんだなと僕は思ったわけです。
たぶん、近代の最初にこういう翻訳劇をやろうとした新劇の俳優達はまじめだったと思うんですね。
だから、そうした突拍子のない断絶されたせりふをなんとか俳優、もしくは演出家がつなげようと努力したんではないか?
そこにこうした翻訳劇の落とし穴があるんじゃないかと稽古の途中で気がついた。
と、いっても、やっぱり俳優という人種はせりふを発するのに理由がいるわけで、その場所に立っているのにも理由がいるわけです。
だから、できるだけ俳優がそのような理由を作れないように、あれやこれやと余計なことを俳優にやってもらったわけです。
まぁ、そんな感じです。

とにかく、今回の公演で僕はようやく、自分がこれならやっていけるという確かなものを見つけれました。
これは相当、大きい。
『脱解釈』の演出家としてこれからやっていきます。
どうなっていくのか、僕自身わかりませんが。
とにかく、精進していくしかないですよね。

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青年団リンク・サラダボール『母アンナの子連れ従軍記』

プロフィール

『母アンナの子連れ従軍記』

Author:『母アンナの子連れ従軍記』
2011/3/19~3/27
於 アトリエ春風舎

作 ブレヒト
翻訳 谷川道子
演出 西村和宏(青年団/サラダボール) 
振付 白神ももこ(モモンガ・コンプレックス)
http://saladball.org/

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